2016年Iwamoto-Fujii Ambassador報告

2016年Iwamoto-Fujii Ambassador報告

中村直行
神奈川県立こども医療センター

このたび、2016年度のIwamoto-Fujii Ambassadorに選出いただき、2017.1.28から2.19まで、San DiegoのRady Children’s HospitalとTexasのScottish Rite Hospitalに行って参りましたので、ご報告させていただきます。

まず、応募する段階で少し迷いがありました。応募基準に「英語が堪能であること」と書かれているからです。私の場合、最近、EPOSやKPOSでの発表機会が立て続けにあり、その流れで「何とかなるのでは?」という“勢い”と、それらの国際学会で日本人が置いて行かれているような“焦り”、そして、国際委員会委員長九州大学中島教授の「大丈夫、大丈夫!気持ちだけあればいいんですから!」というevidenceに基づかない応援に基づいて応募してしまいました。

晴れて選出されたのち、まずSenior fellowshipは、自身で渡航先を選ぶところから始めます。予め行先の規制がないのは感謝するべきことですが、逆に言うとすべて自分でセットアップする必要があります。私自身は海外留学の経験もなく、語学もお世辞にもたけていないので、かなり困りました。応募基準の渡航期間は4週となっており、Fellowshipの補助もそれなりの金額なので、出費を計算しないと大赤字になります。中島教授からも「金銭的に厳しかったらアジアでも良いですよ。」とご助言をいただいておりましたが、先行した初代IFAである大阪の北野先生はイギリス7病院、2代目兵庫の小林先生は北米、カナダの2病院を回っており、「あまり変な所へは行けないな・・・」というプレッシャーもありました。

困ったときは助けてもらおう!、ということで、友達の少ない私ですが、知る限りの人にあたりました。順天堂大の坂本先生や天理大の神谷教授から「TSRHは全く滞在費がかかりません。」と教えていただき、まずそこを含めることに決めました。そして、TSRHから移動しやすい病院を考え、その近隣を探し、北里大の斎藤先生や東海大の酒井先生にご協力いただき、西海岸のRadyを選択しました。日本でもそうですが、渡航する病院の教授から「今度日本からこういう奴が来るので手配頼むわ。」と秘書に下してもらったほうが、すんなりと物事が進みます。病院の公的窓口に正式なApplyをして手続きを進めるとなると、かなり大変だと思います。その点、TSRHでは神谷先生、Radyでは斎藤先生に大変お世話になりました。この場を借りて深謝いたします。

北米の病院見学には多くのComplianceに関する書類提出が求められ、予防注射もあまり日本では行われていないもの(特にTdap booster; ジフテリア・百日咳・破傷風のブースター)も必要です。その点、TSRHは世界から多くのTemporary Visitorを常に受け入れているので、書類のやり取りも半年ぐらい前から始まり、非常にスムースでした。ところが一方、Radyは若干アバウトでした。「Texasは多くの書類提出を求められたが、そちらはないのか?」と再三確認したにもかかわらず、「まぁ、そのうち近づいたらね。」的な返事で、急く感じが無く、「同じ北米でもだいぶ違うなぁ」と思っていたのですが、日が近づくにつれ、TSRHは、Visitor期間中の様々なスケジュールや書類をどんどん送ってくるのに、Radyの方は渡航1か月前になっても何の連絡もない。さすがに心配になって年が明けて担当秘書にメール連打したところ、全て「mailer daemon」で戻ってきてしまい、失礼を承知でNewton先生に直接確認しました。そしたら、「その秘書は辞めた。別の秘書に頼んだから、後はがんばれ。Good Luck!」と。「えーっ!」と思いましたが、その後、代わった秘書さんから「前任から申し送りを全く受けていない。こちらに来るにはこれだけの書類を至急送り返して欲しい。」と爆弾メールが届き、TSRH同等の大量書類が添付されていました。その時既に、渡航まで1週間を切っており、その週は最後のオペをため込んでいたため、“今からこんなにたくさんの書類を出すのは無理だ”と判断し、これまでの経緯を伝え、少しクレームを述べさせていただき、「TSRHに提出した書類を送るから、これで何とかしてほしい。そちらで必要としている情報は、これらにほとんど入っている。」とごり押ししたら、なんとかなりました。San Diegoは間違いなく西海岸気質のようです。

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まずは、寒中冷たい雨の降る日本から飛び立ち、素晴らしい青空の広がるSan Diego国際空港(別名:リンドバーグ飛行場)に降り立ちました。(図1)ホテルのシャトルバスを依頼し、「今から出るから、30分ぐらいで着くよ。」と言われましたが、到着するまでにそれから50分近く経過し、乗り場を間違えたかと思いました。遅れた理由は後でわかりました。ドライバーがホテルのシャトルバスを私的に使用して、送迎のコースとは異なる近隣の観光スポットにお客さんを送ってチップを得ていたのです。無論、その後、私も利用してしまいましたが。しかし、日本とは全く異なる陽気で、私は完全に服の選択を間違えてしまい、初日はWalmartに走り、服の調達から始まりました。

 

初日は朝5時にFellowが車で迎えに来てくれました。外は真っ暗です。彼らの控室に行くと、朝5時台から走り回るように仕事をしていました。また、AM7時からのカンファレンスでは、Wenger先生を中心に熱い議論がなされていました。後のTSRHでもそうでしたが、PresenterのFellowはまさに火だるまになっています。でも、彼らは彼らなりの意見と事前の勉強成果(質問を予測し、仕込んでいたスライドをパッと出す。)で名だたる上級医と渡り合う姿は見事で、これではいつまでたっても我々とは差がつく一方だと愕然としました。日本での「小児整形外科医になっていただけますか?」的な若い医者への気遣いなぞ皆無で、「Staffになりたいなら這い上がってこい!」といった印象でした。カンファ中にそのままモニターがインターネットに繋がりPubmedから関連論文を引っ張る、なんて芸当も頻回に目撃し、瞬時に知識や判断の裏付けしていく作業は圧巻でした。(図2)

Rady Children’s Hospitalは全米ベスト小児病院にも選ばれている有名な病院です。(図3)広い敷地に、綺麗な建物が散在しています。彼らはStaffに昇格すると我々とは比較にならない高収入を約束され、広いOfficeを与えられます。

(図4)当日入院が主で、朝の6時に患者はやってきます。手術室は7時にはほぼセットアップが終わっており、側彎手術に関してはほぼ専属スタッフのNsとMEP技師が関わります。脊椎手術のスタッフが固定され、皆、手術に精通しており、阿吽の呼吸で進行する様は羨ましい限りでした。MEPを司る生理検査技師も自ら誘発のタイミングに声をかけていき自分の仕事にプライドを持っている姿が印象的でした。麻酔科の先生は日替わりでしたが、ご挨拶から入ると手術見学に最もベストなセンターポジションを提供していただけました。(図5)

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手術は非常に早く、効率的でした。この年になると自身の経験値があるため、質問もたくさんさせていただきました。学ぶことも多かったです。何よりの驚きは側弯症(AIS)手術が本当に3泊4日で行われていることでした。手術も、Newton先生はAIS、Yaszay先生はNeuromuscularと棲み分けがなされていました。特に私の専門はNeuromuscular scoliosisなので、Yaszay先生とは、手術後、CP側彎に関して小一時間いろいろお話をさせていただきました。病棟、手術室の撮影は禁止だったので、気に留めたことはノートに書きまくりました。Castingの図を描いていた時、Newton先生に後ろから覗かれ、私の酷い絵を見て“フッフッフ”と笑いながら親指を立てられました。(図6,7)
Newton先生の側彎外来も面白かったです。Newton先生は、診療中、非常にcharmingなwinkを多用され、どちらかというと母親が俳優ばりのいい男であるNewton先生のファンといった印象でした。(図8)

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今思い出しても非常にexcitingな一週間でした。最終日は残念ながら翌年のFellow面接の日にあたってしまい、Newton先生に、「明日は何もないが、お前はどうする?なんなら院内の見学ツアーでも誰かにやらせるが。」と聞かれました。正直者の私は、「申し訳ないがUSSに観光行きたい」と言ったら、「お前は外科医として正しい選択をしている。」とウインクされたのも良い思い出です。翌日は、空母Midway博物館を見に行き、San Diego湾クルーズではデッキでメキシコから来たRaimondsオジサンと意気投合し、“Naoyuki, お前はMexicoに自宅を思う一つ持ったと思え!”と言われたり、自衛隊をSEALsに連れてきたJTBのお姉さんと仲良くなったり(それ以上の関係はありません)、楽しい観光をさせていただきました。(図9、10)

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もう一つ味わった他国の文化として、Uberがありました。(図11)これは非常に便利なもので、日本に導入されるのが待ち遠しいものでした。が、既得権益の中でそう簡単にはいかないであろう予感もします。
次に訪れたのは、こちらもスーパースターが勢ぞろいするTexas Scottish Rite Hospitalでした。こちらは3年前のKPOSに訪れた際、同じinvited speakerとして行動をともすることが多かったHarry KimにHostになっていただきました。また、今回のVisitor shipに関しては、彼のLabo directorだった天理大の神谷教授に間を取り持っていただきました。私の小児整形外科医キャリアとしての初期に大きく携わったPerthes病のBig Nameでもある彼は、私にとってはまさにSuper Starであり、KPOSの前夜にPusanの居酒屋でHui Teak Kim先生、Harry Kim先生と飲んだ時は、「これは正夢なのか?!」とホントに思いました。(図12)その時のことを、今回、「あの時は、サッカー少年がMessiに会ったようなものだった。」と話したら笑われました。どちらもPerthes病の歴史に大きく名を残している二人です。同じアジアの顔とはいえ、恐縮しまくる私に気さくに声をかけていただき、感謝感激でした。そのご縁でTSRHに打診した際は、快諾いただき、彼の奥様であるAnaさんにも「待ってますよ!」とメールをいただき、渡米する日が楽しみになりました。お土産も自然と多くなってしまい、日本のお菓子は包装から美しく好まれる、と聞いていたのでたくさん買っていったら、ご夫妻に、「おまえは私たちのDietを無駄にする!」と笑われました。

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現在、名古屋市大の黒柳先生がResearch Fellowとして在籍いらっしゃるのですが、なんとDallas Fort Worth 空港までデッカイLincolnで迎えに来てくれました。彼は日本からのVisitor Conciergeを公言しており、Kim先生も日本から来客は全て彼に任せていると言ってました。
TSRHは、言わずもがなの小児整形外科領域のFlagship Hospitalです。多くのVisitorが世界中から常に訪れているため、3つのVisitor専用部屋が無料で利用でき、滞在期間中の食事も無料(図13,14,15)という至れり尽くせりの病院でした。

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御年75歳のHerring先生もいまだ現役で、実に3年前まで脊椎の手術をしていたそうです。TSRHの小児整形外科医はKim先生とHandの先生以外は皆背骨を触ります。世界の小児整形外科学会に行くと、CPと脊椎が大きな柱であることを感じます。股関節と足部変形にやや傾倒している印象のある本邦の学会事情を再認識させられました。病院の廊下には病院の立ち上げ時からの写真が飾ってあり、若かりし頃のエネルギッシュなHerring先生や髭が生えていたころのRichards先生、バートレイノルズばりのBirch先生など若干ウケてしまいました。そして、それらの先生がいまだに現役である恐ろしさです。(図17,18,19,20)

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カンファレンスはやはり毎日7時から始まり、同じようにFellowは火だるまです。が、ほぼ、Radyと同じ文化を感じました。それもそのはず。写真にもあるように、Wenger先生は以前ここのスタッフで、Herring曰く「あいつは昔ここの仲間だったんだが、Radyが出来るときに出て行ったんだよ。」と。スーパースターの中でも特に光っていたのは、Chief of StaffのSucato先生でした。カンファレンスで、かなりひどい股関節破壊状態になっていた患者の治療方針が「関節鏡でちょっと観察して洗浄ぐらいでよいのでは。」と消極的な方向に向かおうとしたその瞬間、後ろにドッカと構えた細川たかし風で恰幅良いSucato先生が「ヘイ、ヘイ、ヘイ!どうしたってことだい!俺たちが後ろ向きになってどうする。我々は常に前向きな治療していかなければならない。TSRHとはそういう病院だ。We never give up!」と恫喝し、治療方針が180度ひっくり返って、攻めの関節形成に手術方針に変わっていました。良くも悪くもカリスマ性のある先生で、自身もあのようなChiefでありたいと憧れました。

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仕事終わりは早く、午後4時を回ると病院は閑散としてしまいます。その時間に私は病院のすぐ裏にあるKaty Trailにしょっちゅうランニングに行きました。また、私は海外旅行に出ると地元のバスに乗るのが好きです。そのスピード感が自分にとってはちょうどいいのです。そこで、“DART”というダラスの公共交通機関はスマホで乗れたので、バスに乗ってダラス観光に行ったりしました。ただ、後でHarryにその話をしたら、「え?おまえはホントにバスに乗ったのか?おいおい、勘弁してくれよ。もう二度と乗らないでくれ。なんかあったらどうするつもりなんだ。俺はお前を無事に日本に帰さなきゃならないんだよ。笑」と言われました。確かにバスには黒人しか乗っておらず、かなり危険な行為だったようです。(図21)

 

ダラスのユニオンタワーから、アメリカって感じのHighwayを眺めたり、有名なSixth floor museumも訪れました。(図22,23,24,25)

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Kim先生のHostで来院しながら脊椎手術にしか入らないという不届き者の私に、仕事が終わると「どうだい?時間があれば私の部屋に話しにでも来ないか?」とよく声をかけていただき、TSRHで感じたいろいろな違いを話し込んだりしました。週末には彼の豪邸にお招きをいただきました。まず、彼はストイックなアスリートで、自宅の2階には自転車のトレーニングマシーンが置いてあり、Herring先生と共に毎年100マイルレースに出るそうです。ちなみにHerring先生の膝Xpをたまたま彼の外来で見る機会があったのですが、「これ、どう思う?」とかまをかけられるほどの重度OAであるにも関わらず、自転車はKim先生より速いらしいです。Kim先生のお古自転車を借り、まず近くの湖の周回道路10マイルをかなりのペースで回った後、奥様お手製のとてもおいしい料理に舌鼓を打ち、最後にはPing-pong対決をさせていただきましたが、いずれも全く勝負になりませんでした。その点、留学中の黒柳先生はサイクリング、ピンポンとも互角に渡り合っており、ある意味、留学の成果はしっかりと出ているようでした。笑(図26)

それ以外にも、興味深いものが尽きませんでした。
文化的側面を感じたのは四肢切断に関する環境です。形ばかりの四肢を再建するよりも切断してより機能の高い義足を利用したほうがreasonableだという文化、聞きしに勝るもので、Herring先生の義足外来は衝撃の連続でした。普通の中学生が、カーボンブレードの義足で現れます。その値段を聞くと、両側作成で2000万を軽く超え、私が「家一軒分だ!」と驚いていると、「それもかなりいい家だよ、この辺なら。」とHerring先生が笑っており、まさにシェールガスで沸くテキサスならではと感じました。その高名さから世界中の富豪の子供なども来ているようでした。義足でバク転などしながらチアリーディングを楽しむ女子大生も衝撃でした。

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TSRHの地下はそのまま義足工場になっていて、壁一面に交換パーツが並ぶ絵は圧巻でした。調整もすぐできます。北米ではすでに市場で購入できるとされる赤外線プロファイラーを利用した側彎体幹硬性コルセット作成用の3Dプリンター(図27)なども見せていただきました。Richards先生は脊椎外科医として高名ですが、実は内反足外来をやっており、その丁寧なCastingとSuper Gentleな家族への声かけなどをみているとその小児整形外科医としての幅の広さを感じました。Birch先生は下肢変形に関して症例質問した際は、自分のパソコンから同じような症例を呼び出して丁寧に教えてくださいました。驚くべきは、そのPCの中に見た患者ファイルの数とそれら症例がどんな症例だったかすべて記憶している恐ろしさでした。代表的症例ばかりなのでしょうか、パッと見ただけで700以上の番号が振られていました。Kim先生のPerthes外来も興味深く、症例とタイアップしながら見せていただいたperfusion MRIは、Xpに反映しない病初期からの重症度判定に非常に有用と思われたため、そのsequenceを教えてもらい、帰国後直ぐに我々も利用し始めました。ただ、日本ではほぼ100%StulbergⅠ、Ⅱに治癒すると思われる6歳未満の子供たちが、いわゆるSupervised neglectのために、20%ぐらいがStulbergⅣ以下となっており、日本では見ることのないような酷い破壊を呈した股関節をたくさん見ることができました。Kim先生も「自分たちの方法はこれが欠点であることは認識している。但し、無駄な医療費をかけることなく80% がStulbergⅢ以上になるのだから、これはこれで十分な治療である。」とコメントしていたのが記憶に強く残っています。これも文化の違いでしょう。

Radyに1週間、TSRHに2週間滞在し、私のsenior fellowshipは終了しました。本当に帰りたくありませんでしたが、当科部長就任後まもなくでしたので、泣く泣く帰国しました。我々のような歳になると、そう長く職場を不在にすることもままなりません。そういった点ではこのIFAは良い理由になります。また、ある程度経験値を積んだ状態で、国際学会ではなく、国外の実臨床に触れると日頃の自分の仕事と比較する内容が多く、質問や議論が尽きません。先日、本基金の藤井先生にお会いした時、「その点を強くアピールしてほしい。」と言われましたので、ここに記します。

40代後半の私に改めて刺激を与えてくださった齋藤知行理事長、岩本幸英先生、藤井敏男先生、国際委員会委員の皆様をはじめとする本学会員の皆様に深謝いたします。